あれから三年…。

現役の頃は「日本ハムファイターズ」、「広島東洋カープ」、「読売巨人軍」で活躍し、引退後は読売巨人軍の内野守備走塁コーチであった「木村拓也」が他界してからちょうど丸三年、本日は木村拓也について書く。
木村拓也は1990年に「ドラフト外」で日本ハムファイターズに捕手として入団したが1992年に強肩と俊足を買われて外野手に転向した。
1994年オフにトレードで広島東洋カープに移籍、「正田耕三」の後釜として二塁手をこなすようになり、1997年から「スイッチヒッター」にも挑戦した。
しかし、広島移籍後はなかなかレギュラーを獲得できなかったため二塁手だけではなく他の内野をこなすようになり、投手以外のポジションを守れる「ユーティリティープレイヤー」(万能選手)として色々なポジションでもスタメンに名を轟かすようになった。
2000年に規定打席に到達して1番バッターとして活躍、その後三年連続で130試合フル出場を果たした。
2004年には「アテネオリンピック」で野球の日本代表(長嶋ジャパン)にも選出された。これは監督を務めた「長嶋茂雄」が木村拓也がユーティリティープレイヤーとして選出されたと後日長嶋茂雄が語っている。
2006年シーズン途中に読売巨人軍へと移籍、選手層が厚いチームであったがその中でも代打の切り札やユーティリティープレイヤーの才能を発揮し、この年のシーズンは巨人の選手達の年俸が大粛清ムードであったが木村拓也は年俸アップを勝ち取った。
2009年9月4日には対「東京ヤクルトスワローズ」戦(東京ドーム)で登録している捕手を使いきってしまい10年ぶりに捕手として出場、当時、登板した「東野峻」投手(現在はオリックスバファローズ)が「いきなり拓さん(木村拓也)がフォークボールのサインを出すんですよ」と後に日本テレビ系列の「ズームインサタデー」で語っている。
2009年シーズンは読売巨人軍が日本一に輝き、木村拓也はこのシーズン限りで引退、内野守備走塁コーチとして後進の指導に当たることになった。
ところが翌年の4月2日の対広島東洋カープ戦(マツダZOOMZOOMスタジアム広島)での試合前のシートノック中に突然胸を押さえながら倒れ、意識不明の重体に陥り「AED」等の救命の措置が取られ広島大学病院に緊急搬送され診察した医師から「クモ膜下出血」と診断された。
懸命の看病もむなしく4月7日午前3時22分に木村拓也は二度と帰らぬ人となってしまった。享年37歳であった。
その死を受け、木村拓也追悼試合が15日の対広島東洋カープ戦(東京ドーム)で行われた。
両軍の応援団が木村拓也の応援歌が流れる中、白熱した試合となったが木村拓也の同級生でもある「谷佳知」選手のホームランで試合を決めたがその時のヒーローインタビューで谷選手は同級生の死を悼みながら目頭が熱くなっていたのを私は現在も覚えている。
木村拓也の死から丸三年、私は木村拓也とちょっと違うが脳の病気を抱えている。彼の分まで生きて行かなくちゃと再び誓った。
プロ野球のファンとして木村拓也のご冥福を心からお祈り致します。